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三日ほど前、 思い立って、森、神戸、そして私の三人組は、 蒲郡に近い西浦海岸へ行ってきた。 事の発端は、 一年ほど前に福島正則の刻印が入った名古屋城の石を西浦海岸で見つけたという 第一発見者の壁谷(かべや)さんからつい最近、電話があったからだ。 その後も、刻印入りの石はいくつか発見されて、 そのうち一個を宮の渡しに持ってきてもよいという朗報。 福島正則の位牌が置かれている海部郡美和町のお寺、菊泉院をたずねてから、 西浦に向かったので、 着いたときはすでに海岸は真っ暗闇だった。 しかし、幸い干潮時であったため、 岩場に降りることができて、刻印が確認できた。 岩の上に、マルに十字紋。 福島正則は、 関が原の戦いで、加藤清正ら豊臣恩顧の武将達を徳川軍につけた。 そういう意味で家康側から見れば功労者であった。 その結果、安芸の国、今の広島を領地にもらったのもつかの間、 名古屋城の築城と堀川の開削工事を命じられた。 そして国に帰り自らの広島城の補修工事にかかるや、 無届で改修工事をしたという因縁をつけられて、 領地は没収、信濃の川中島に流された。 外様大名の悲しさといえばそれまでだが・・・。 それからしばらくして無念のうちに亡くなったという。 加藤清正も名古屋城築城の後、 しばらくしたあと、亡くなっている。 壁谷さんは言う。 「2010年の名古屋城開府400周年にあたって、 本丸御殿を再現しようという名古屋市の試みに、 一言、申し上げたい」と。 つまり、名古屋城築城に労のあった武将たちに感謝してもらいたいと言うのだ。 本丸御殿を再現する前に!である。 必要であればそのために石を宮の渡しに置いてもよいという。 本丸再現に150億円かかるらしいが、資金はまだ足元にも及ばない。 彼が言うのは、話の筋だ。 築城の陰で亡くなっていった人たちの霊に感謝の思いを表さずして、 なんのための開府400周年か。 言われるとおりである。 それを果たせば、資金は自然と集まる・・・私もそう思う。 協賛金の集め方をどうすればいいのかという方法論の問題ではない。 ハートの問題である。 スジの問題である。 腹のくくり方の問題である。 壁谷さんは、サムライやなあと思った。 だから我々も、ここ西浦に駆けつける前に、 福島正則ゆかりの菊泉院を訪れた。 400周年を前に、 加藤清正の石は、海路づたいに宮の渡しから陸路でコロに乗せて名古屋城まで引き上げる。 福島正則の石は、福島が堀川開削に功労があったため、 船に乗せて名古屋城のお堀近くまで持って行く。 これをプレイベントとして実施すればよい。 こんな話をしながら、川中島へ行こう! 巌松院へ行こう! 北斎ゆかりの小布施へ・・・、 話はどんどんふくらんで、壁谷宅に上がりこんで夜も遅くなってしまった。 ・・・その翌日、壁谷さんが宮の渡しに現れた。 杉江さんから電話があった。小布施へ行く話をしたら一緒に行きたいと。 高山村のしだれ桜を見ながら、巌松院の龍を描いた天井画を見る。w なんだか楽しそうな旅になりそう。 壁谷さんの投じた一石が意外な波紋に・・・。
by ryuoh12
| 2006-03-12 04:15
| 武家の里
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